昭和46年07月07日 朝の御理解



 御理解 第80節
 「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生れてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うものぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」

 信心させて頂く者の心掛け、これは信心を頂いていないにしても、まぁ段々年を取った人、先輩を大事にする心とか、尊敬とまではいかなくとも、大事にする心は誰しもあると思うですね。私は、この御理解を頂くたびに、すっきりと分からない事が多いのですけれども、年寄りだから、必ずしも世のお役に立っておる道理だと仰るのですけれど、只、世の荒波を切り抜けてきたとか、又は、子供を育ててきたとか。
 これはまぁ親として、人間として当たり前のこと。様々な苦労を辿ってきた。様々な身のため、家のために働きをしてきておる。けどもそれはどこまでも当たり前と言えば当たり前の事で、中にはやはり世のお役に立つという人もあります。けれども厳密に言うと、本当に世のお役に立つという事は、立っとるかどうかも実は分からんのである。昨日新聞を見せて頂いておりましたら、今度の新しい大臣の顔触れが出ておりましたが、もう驚きますね。八十才から上の人が沢山あることです。
 八十八才なんかちいうのが確か、あったように思いましたがね。こげんとがどうして働きが出来るじゃろうかと。八十八と言えば私の父と友達ですが、それがやっぱ大臣にもなる。丁度、昨日は、竹内先生が東京へ出張しておられて、帰りに寄られましたから、その話をしましたら、とにかく話をしてみると、実に八十にもなった、七十にもなったというお爺さんの様ではなくて、考え方が若々しいと言うことですね、大臣にもなる方は。勿論健康も、やはり優れてある。
 頭をしっかり使うと若くなるそうですね。昨日その話を聞かせて頂きましたら、例えばそれはまぁお国のお役に立つと言うか、まあ国の政に携わられる政治家、まず大臣という様な方達が、果たして本当に世のお役に立ってきておるかどうか。言うてきたりしてきたりしておる事が、本当に世のお役に立ってきておるかどうか。実は厳密に言うと分からんのですよね。そげな頭の良かつどんがおったから、かえって困った事になって来ている様な事態も沢山あるかも知れません。
 実際の頭だけで言わば政をするといった、言うならば、段々世のお役に立った人は、人間国宝とか何とかと言った様な言葉をもって、国がその人に対して敬意を表するというような、それとてもですね、果たして、本当に、どれだけのお役に立ったかという事は、私どもでは分からん実際は。だから私は、ここの所は、世のお役に立ったと、とにかく、自分で生まれようと思うて、この世に、這い出てきたのではない。神様のおかげで生まれてきたのであるという事です。これだけが事実です。間違いないことです。
 御理解八節に、子供の中に屑の子があれば可愛いのが親の心じゃと。不信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けてくれよと言ってね、御理解がありますね。所謂、これが神心でありましょう。屑の子であれば屑の子である程、親は可愛いという神心。私は、段々年をとって参りましてです、子供から見ればね、自分、所謂、養育をしてもらった、此処まで育てて貰ったという事だけに対する、親の恩ということになりますけども。他人から見れば、そう大してその人にお世話になっているという事ではない。
 けれども私は、神の心をもってすればですね、矢張り、私どもよりも早く、何十年、例えば八十才になれば、八十年間という長い間、この世でご苦労をして下さってある、ご苦労してきておる。もうその皺の一つ一つに、その苦労が刻まれておる。そういうですね、私は、親切とか神心とかいう様なものをもって、ほんなら、私は、年寄りを大切にするということは分かる様な気がします。
 だから皆の心の中に、矢張りそういう何とはなしに、神心とか、親切な心というものは人間誰しも持っておりますから、段々力がなくなってくるよぼよぼになってくる。そすとそれを優先的に大事にする。そういう事だけが尊敬するというのじゃなくてですね、私は、神心をもって見るということ。次には若い者でも役に立つ人は、何となく人が敬うてくれるようになる。だからこの辺が大事だと思う。
 私共が本当に神様に喜んで頂く様な生き方をさせてもらうという事が、そのまま世のお役に立つことだと思う。自分の家の前をきれいに清掃させて貰うという事は、世界の清掃につながっておるんだと言う様な心掛けで生活させてもらう。あの年寄りよりこの年寄りの生き方を見ておって、ほんな吾が家の事だけ他家の事など考えてない。段々年を取って来る事によって、もうあの奴はコンニャク婆と言われるように、灰汁で固めたコンニャク婆的に年を取って行く人もある。
 あの手の頑固爺はと言うように、益々年を取るに従って頑固になっていくという人もある。そういう人達を例えば敬わねばならんと言うのであるから、これは本当の敬うという事は、神心にならなければ出来ない。例えどうであったにしても、何十年間苦労をしてきた。その苦労が皺の一つ一つに刻まれておる。本当に皺くちゃの手をとってから撫でさすりしてやりたい様な心。
 私はそういう心がね、神心でありそういう意味ではなかろうかとここで思うんです。それで私ども、どうせ年を取っていかねばならんのでございますが、年を取っていく具合がです。今も申します様に、本当にどういう事をすることが世のお役に立つという事が実際分からん。長年大臣を務めたからと言うてです、かえって世の弊害になっておるかも分からん、神様が御覧になれば。
 却って良い頭で悪い事を考え出したり、人の出来ん事を頭で平気で悪い事をしてきたりする様な事があるかも知れん。この辺の言葉に「さとのきもすこ」ち言うのがありますね。大きくなるに従って甘うなるち言う奴。大きうなるに従って年を取って行くに従って、つまらん様になって行くとこう言う。よくよく私共が根本的な所に、その信心の心をおかせて頂いて、年を取るに従って先日の御理解じゃないですけどね、年を取る程有難うなってくると言う様な生き方をさせて頂かなければならない。
 どういう事が世の中のお役に立つか分からんのだけれども、とにかく自分の前を掃わかせて頂くというのが、世界の清まりに繋がると言う様な生き方こそです、世のお役に立つことだと思うのです。私共の日常生活の上にです、果たしてそういう様な心掛けで、日々の御用を頂いておるだろうか。お商売をさせて頂くでもお百姓させて頂くでも、只自己だけが中心ではなくてです。
 この働きがそのまま世のお役に立つ働きに繋がるような、いわゆる根本的な心掛けのことを、私は今日は、ここんところに教えておられるように思う。信心する者はよう心掛けておくが良い。だからこれは若い内からです、世のお役に立たせて頂く子供の気持ち。只、表を掃わかせて頂くだけでも、自分方の前のだけを綺麗にして、他所の方にゴミは掃わきつけとくと言ったようなものではなくて、それはなかなか出来ませんけれども、自分の前だけでも良い、綺麗に掃わかせて頂けば。
 けどそれは世界の一部が清まっておるんだと言う様な生き方頂き方。そういう心掛けをです、私共はさせて頂いて本当の意味に於いて、人に敬うてもらうと言うより、むしろ神様に大事にしてもらえれる年の取り方をしていかなければならんという事を思います。昨日、ある青年の方が、ちょうど、午後の奉仕の時でした、参って参りました。今朝方から母が御夢を頂きました。
 それにその誰かが息子に、男になれ男になれと言うて、言うお声をお夢の中で頂いたと言うのである。先生男になれとはどんなことでしょうか。実は僕はいつの場合でも、自分の結婚問題で悩んでいるわけですけれども、いつも結婚が崩れていくわけである。その原因が、勿論、家庭のいろんな問題の事にもありますけども、あちらの息子さんな、偉い金光様の信心げなと。
 まぁ信心が悪いことじゃないけども、ちっとばかりさっしゃるとなら良かばってん、あげん一生懸命さっしゃるごたるならいかんというのが、結婚が崩れる元だとこう言うのである。この辺のところを、どういう風に考えていったら良いであろうかとこう言う。まあ言うならあちらの息子は、信心気違いとまでは言わんでもです、余り信心に熱中するからというのが、結婚が段々崩れていくという元になります。
 私は丁度そういうお取り次をさせて頂く何分前かに、こんなことを頂いて、ちょっと此処に控えさせて頂いておるところへその方が参ってきた。今ね私はこう言うことを頂いて、此処に控えておったとこじゃが、これはあなたの今のそのお届けを聞かせて貰いよったら、その事に対するお答えかも知れませんと言うて話したことでしたけれども、こう言うことでした。黙って喜んでおれば黙っておかげを下さるという事である。
 これはここで私は、神ぎにはっきり頂いたのです。黙って喜んでおれば黙っておかげを下さる。この黙っておかげを下さるところが素晴らしいですね。というのは、願わんでも頼まんでも、ちゃんとおかげは下さるという事なんです。黙って喜んでおればが、だから、難しいと言えば難しい。ここで一口言うた方が良い、まぁここまで出てくる、喉まで出てくる。それをぐっと押さえる。
 まあ言いたいことは明日言えと言った様な事がありますがね。確かに一日辛抱させてもらうと、あぁもう本当に言わんで良かったと思うような事がございます。けども、それではないのです、ここでは。黙って喜んでおればなのです。此処んところがです、本当に信心が出来ると言うか、分かっとると言うか、信心の筋金がちゃんと立っておらんとなかなか喜べんのであります。黙って喜んでおれば黙っておかげを下さる。
 昨日の御理解の中でも申しましたですね。壮年部会の時に、石井喜代司さんが発表しとられる様に、いろんなことをです、御事柄として、御ものごととして、敬い畏みでしたかね、で頂いていけば、どんでん返しのおかげになると言うこと。私はそういうことにつながると思うですね。例えば、困った事とか、言わなければおれないような事でもです。それを御事柄、御物事として、神様の働きとして頂くところに、頂けること、その事自体が喜ばしいのです。
そういう生き方であれば、神様は黙っておかげを下さるのであり、又は、どんでん返しのおかげが受けられる。私はここんところがですね、ちょっと余談ですけれども皆さんに聞いて頂きたい。そして信念を、いよいよ培っていかなければならんと思う事なのですけれども。例えば病気なんかでもですね、本当言うたらもう、この頃の御理解ではないけれども、それこそアラン・ドロンですよ。
 アラッと言う間に、消えてなくなるようなおかげが絶対に頂かれるとです、神様のおかげを頂けば。ところが、こちらにその真がないからおかげが受けられんのです。初めて病気なんかでお参りをしてくる人に、私が必ず申しますことは、お願いしましょう、必ず印が見えます。どんな病人でも、神様の働きが見えます。だからそこんところに縋っておかげを頂かにゃいけません。
 成程神様ちゃこういう不思議な働きを見せて下さるということが分かって、そこから縋っておかげを頂けとこう言う訳ですけれどもね。ですから本当言うたら、どんでん返しのおかげ。本当言うたら、アラッと言う間に消える程しのおかげが頂かれる、信念を持っておれば。神様の働きというものは。ですからね、これは、ほんなら、病気だけの事じゃありませんです。金銭のお繰り合せだってそうです。
 お願いをすれば、成程この様にお繰り合わせを頂くと。だからいつもそういうおかげが頂かれるはずなんだ。それを私の信が足りないから頂けんのであると言う事。だからすでにおかげを頂いておるんだ、頂いておるんだという思いなのです。例えば病人の場合が一番分かる。ちょっとお願いして印が見えたら、もう本当言うたらば、全快のおかげを頂いておると言うような思いでです、神様に御礼を申し上げるのです。
 けれどもまだ少しは痛む。例えば病気で言うならね。少しは苦しい、その苦しいところをです、まず私の信が足りんのだと、そこを狭めていく生き方になって参りますと、非常におかげが早いです。本当にですね、成程もうおかげを頂いとるなあと言う気がするです。本当ですよ。もう痛い痒いなんか神様はもう今痒かつが今でん治るです。是はもう絶対、そういうおかげが頂かれるのが信心です。
 けれどもこちらがそれを信じきらんから、まだ少しは痛かったりすっきりしなかったりするんです。けれども印だけは必ず見える。だからその印を愈々本当なものにして行くという事がですね所謂確心的信心。本当にそこが分かれば本当に掌を返す様におかげを受けられるとです。医者がこげん難しゅう言う病気じゃから、この病気はもう一生治らんと言われとる病気だからと言うて、ちゃんとおかげは差し引いてしもうとる訳です。こげな病気がとても一日二日で治るはずはないち、自分で決めてしもうとる。
 だからおかげ頂かん。もう神様のおかげを頂きゃ絶対もう本当にですね、アラッと言う間に掌を返すように、おかげ頂けるとです。だからまあ印が見えたらです、本当に自分の信の不足がこんなすっきりとしたおかげになっとらんのだけれども、是は人間関係だって経済関係だって同じことです。そういう信心の筋金が、段々本当なものになって行くおかげですね。まぁちょっとその事を、話しが余談になりましたがです。
 その前の青年の結婚問題のその事でもそうです。お母さんが頂いた男になれ男になれと言う事を頂かれた。男になれとはどう言う事かと。そこで例えば、家の家柄があまり良くないとか、又は自分が一生懸命に信心に熱中するとか、そういう事でです例えば相手の娘さんが断ってくるごたるとならば、そう言う事を言うごたる女なら、こっちからお断りすると言う位な、私は心が男になる事じゃなかろうかと私は申しました。
 これはだから信心も、いい加減に少し緩めにゃ嫁御の来てもなかと言う様な考えではなくてね。信心するけんあそこに嫁要らんとかという様な事を言う様な娘さんなら、もうこちらの方からお断りすると言う位な、私は信心こそが男らしいと言う事じゃないか。それこそ黙ってそこん所を、喜んでいけれると言うこと。神様が黙っておかげ下さるよと、言うてお話した事でした。
 そういう例えば、筋金の通った信心をもってです、世のお役に立たせて頂こうと。それは例えば、自分の家の前を掃わかせて頂くでも、只、自分方ん前だけば、綺麗になれば良かと言うて、他所の方にゴミは掃わきやってしまうと言ったような、生活態度ではなくてです、自分が今、ここを清めておるという事がです、世界の清まりにつながるのだ、と言うような思い方。そういう生活態度がです、私は世のお役に立つこと。
 そういう生き方をすれば、若い者でも、敬うて貰えるようになり、年を取って行きゃ、尚更、そういう生き方が出来て行くのですから、頑固爺にもなることは要らん、コンニャク婆になる事も要らん。いよいよ本当の意味に於いて、あれがもう年寄って、ぼやぼやしよるから大事にされるのではなくて、本当の世の功労者、世のお役に立った人としてです、皆から大事にされるようなおかげが頂かれる。
 ほんならこれは、自分自身が年を取って行くに従って大事にされるという、そういう意味と、年寄りを大切にせよと、今ここに、一番に言うとられます。年寄りを大切にせよと。だからこれはここら辺は、私自身も分かりませんけれど、それは私は、神心をもってする。成程、根性の悪い婆さんじゃ、頑固な爺さんじゃ、けれども八十なら八十年間という間、世の荒波に揉まれて苦労をしてきた人だと思うたらです。
 しかももう力も段々抜けていっとられる、その同情と言った様な心が、もっと高められて、神心をもってです、本当に何十年という間御苦労でした。この世に生きてくるという事をです、本当の意味に於いての幸せも味わい得ずして、この年になっておられると言うことはです。それこそ、若い者でも大事にしてあげなければというような気持ちでですね、私は是は、信心するしないはともかくとしてから、年寄りの方が参ってくると、本当に大事にしゅうごとして、応えん気持ちがするです。
 もうこう皺かれた手でん何でん握ってから、こうこうやってから、撫でて擦ってやりたいごたる衝動を感じます私は。だからそういう心こそです、私は或る意味に於いての、屑の子ほど可愛いという神様の御心であり、又神心ではなかろうかと自分では思うのです。だからこの辺の所は、私はあんまりよくこの事自身も分かりませんけれども、年寄りを大事にせにゃならん。それは私どもより先に生まれてきとるからだ。
 しかも世のお役に立っておるからだと言うておられるけれども、果たして世のお役に立ってるか立ってないか分からん。かえって例えば、嫁をいじめたり、根性の悪いことばっかり言いよる人かも分からんのです。けれども何十年間という間、この激しい世の中に、まあ揉まれながら、年を取っておられると言う。只それだけでですね、まあ優先的に年寄りを大事にするという意味では、私は信心する者の心掛けと言えないと思うです。信心する者の心掛けというものは、それにもういっちょ突っ込んだもの。
 それには、私共、信心の筋金というものが、ちゃんと通っておって、本当に御事柄をです、敬い畏む心で受けて行くようなおかげを頂いて、本当に成程こういう生き方で行きゃ、どんでん返しのおかげが受けられる事実を体験させて貰い、又は、黙って喜んでです、黙っておかげの受けられるような体験を頂いて行ってこそ、そういう信心の筋金が出来てこそ、自分自身も大事にされるだけでなくて、本当の意味に於いてです。
 神様が思いをかけなさるであろうような思いでです。屑の子が可愛いという。年寄りの、昔で言うならね、もう姥捨て山にでも行かなきゃならないような人でもです。それこそ、撫で擦りしたいような心の状態、いわゆる神心が強うなって行く。そういう神心をもって年寄りを大切にせよと言う事だと私は思うのです。信心する者のそれが心掛けだと言うておられます。
   どうぞ。